ビールとポップコーン

ネタバレ書かずに、観た映画(ときどき読んだ本など)を雑文多めに記録しています。

「アンソロジー お弁当。」を読みました

アンソロジー お弁当。

アンソロジー お弁当。(2013)

しばらく長編小説を読んでいたので、息抜きに短いエッセイ集を読みました。転職してからここ半年くらい以前に増してお弁当を作らなくなってしまったのだけれど、先日ひさしぶりにお弁当を作ったら「やっぱりお弁当っていいよなぁ」としみじみ思ったので再読です。

 

私が敬愛してやまない向田邦子さんの「お弁当」というエッセイに、以下の一節があります。

小学校の頃、お弁当の時間というのは、嫌でも、自分の家の貧富、家族の愛情というか、かまってもらっているかどうかを考えないわけにはいかない時間であった。豊かなうちの子は、豊かなお弁当を持ってきた。大きい家に住んでいても、母親がかまってくれない子は、子供にもそうと判るおかずを持ってきた。

(中略)

私がもう少し利発な子供だったら、あのお弁当の時間は、何よりも政治、経済、社会について、人間の不平等について学べた時間であった。残念ながら、私に残っているのは思い出と感傷である。

 私にとってのお弁当もまさにそんな感じで、お弁当についてふと考えると胸が詰まることが多いのです。

とくに高校生時代のお弁当のこと。私の母は看護師として昼夜シフトで働きながら、夜勤で朝不在にしているときを除いてほとんど、お弁当を作ってくれました。当時はスマホクックパッドも無かったから、お弁当の本や雑誌を買ったりしながら、いつも可愛らしいお弁当を作ってくれました。3月には「ひな祭り弁当」(今で言うキャラ弁)を作ったり、夏には「冷やし中華」なんてこともありました。仲の良かった友人が私のお弁当を羨ましがって、友人の分まで母に作ってもらったこともありました。

私は自分のお弁当を「恥ずかしい」と思ったことは一度もなく、むしろクラスメイトに見られて「美味しそう」「かわいい」と言われることに誇らしさというか、小さな優越感のようなものを感じていたほどです。母が私の気持ちを見越してお弁当を作っていたとは思えないのですが、とにかく、いつもお弁当箱の蓋を開けるのが楽しみでした。

女子だけのクラスでしたが、3年間、いつも同じお弁当の女の子がいました。大きなプラスチックのお弁当箱にお米を敷き詰めて、その上に出来合いの鶏の照焼を切って並べているお弁当。彼女は地味で、特別親しい友人がいる様子もなく、いつも1人でお弁当を食べていました。そんな彼女に私は、彼女のお弁当にちなんだひどいあだ名をつけて、友人たちと笑っていたのです。つくづく性悪、最低。過去の自分をぶん殴ってやりたい。彼女の家庭事情がどうだったのか、彼女のお弁当を誰が作っていたのか、モーレツな偏食でそのお弁当しか食べたくなかったのか。高校の同窓会には1度も参加していないし繋がりもないので、もうたぶん一生彼女に会うこともないのだろうし、会ったところで「あなたの高校時代のお弁当は、」なんて聞けるはずもないのだけれど。

高校生の頃、母のいない朝はキッチンカウンターに千円札が置いてあって、コンビニで昼食を買っていました。私の記憶では、1度だけ、父がおにぎりを作ってくれたことがあります。いつも母のお弁当が楽しみだったのと同時に、たまに買うコンビニ弁当もまた楽しみだったので「なーんだおにぎり作ってくれたの」と素っ気なく父に言ったような気がします。可愛らしいピンク色の小花柄のハンカチにくるまれたおにぎりを受け取ったとき、やたら重たいな、と思ったのですが、お昼休みにハンカチをほどくと、アルミホイルに包まれたソフトボールくらい大きなまん丸が2つ、入っていました。アルミホイルの中は、海苔で真っ黒い球体のおにぎり。無性に恥ずかしい思いをした記憶があるけれど、今となっては鼻の奥ががツンとするような思い出です。

この他にも、高校生最後のお弁当には母からの手紙が添えられていたこと、反抗期でグレにグレた妹が母のお弁当をほとんど食べずに自宅のゴミ箱に捨てていたこと、それを見つけた私は捨てられたお弁当が見えないように隠して妹にブチ切れたこと、どれも感傷的な思い出ばかりです。

大人になって初めて自分以外の人のためにお弁当を作ったとき、私のためにお弁当を作っていた母の気持ちがわかりました。誰かに見られることを想定して(優越感を感じてほしくて)作ってなんかいなかった、食べる人のことしか考えていなかった、ただただ喜んで食べてほしいという気持ちだけで、無理してでも作っていたのだと思う。

 

たぶん、彩り美しい弁当は山とあったろう。しかし記憶に残るのは、その家のにおいがにじみ出たような弁当ばかりだ。家庭にはそれぞれ、流儀や価値観、習慣がある。人の数だけ暮らし方はあって、その内実は経済状態や住環境、家族構成といった表面的なことのみで計れるものではないのだろう。なにせ暮らしというのは、誰もが営んでいる身近なものであるにもかかわらず、これぞ正解という形がなく、プロもいない。そもそも甲乙をつけられるものですらないのだ。どの家庭にも必ず華があり、よろこび苦しみがあり、問題があり、喪失がある。だから、体裁を飾ることや、よそと比べてどっちがどうだということはあまり意味がない。家庭は本来、自分たちなりの形をゼロから紡げる、これ以上ない創造的現場なのだと思う。

理想の家庭、なんて幻想である。人も暮らしもいろいろあるから面白く、また愛おしいのだ。

(弁当三十六景/木内昇

 インスタグラムのハッシュタグ「#お弁当」なんかで見る違和感の正体はこれだったんだ。高校生の頃から20年近く経ったいま、私は生活感のある地味弁が大好きです。