淵に立つ(2016)
少し前に友人から勧められたタイミングで、ちょうどCSで放送予定があったので録画しておいたのですが、やっと観ました。友人が「超ショックな映画」と言っていたので覚悟していましたが、胸騒ぎのするシーンがいくつもあって「ヤダヤダ…コワイコワイ…」とボソボソ言いながら観終えました。
町工場を営む利雄(古舘寛治)のもとに八坂(浅野忠信)という男が訪ねてきます。2人は古い友人関係のようで、どうやら八坂は刑務所から出所したばかりで、さらに八坂が服役したことに利雄は恩を感じている様子。利雄は妻の章江(筒井真理子)に相談することなく、八坂を自身の工場で雇い入れ、さらに自宅の空き部屋にしばらくの間住まわせることを決めるのです。
同じ食卓を囲むことや入浴後の半裸姿の八坂に最初こそ戸惑っていた章江ですが、八坂の丁寧な言葉遣いや礼儀正しさ、さらにオルガンが弾ける八坂に娘がなついたこともあり、章江も八坂を受け入れるようになります。
とにかく全体的に不穏な、終始安心できない映画でした。なんせ浅野忠信が不気味すぎます。表情も話し方も、言葉の抑揚も、全部怖い。やっぱりすごい俳優なんだなー。
それから筒井真理子もすごかった。年月を経た見た目の変化は、肉じゅばんを巻いているのかな。完全にくたびれたおばさんになっていました。困ぱいして神経質になっていく様子も観ていてキリキリしたし、台詞が見えなかったです。
夫婦ってなんなんだろう?と思いました。利雄と章江は一見平穏な家庭生活を送っているようだけれど、夫婦間の喜怒哀楽が全然ないのです。これって平穏て言えるのかな。
しばしば夫婦は「空気のような存在」と例えられます。目に見えないほど当たり前に存在しているけれど、無くなったら生きていけない。夫婦が空気のような存在であるには、そこに絶対的な安心感や愛があってこそだと思うのです。「うちの夫?空気だねw」みたいにただ存在を無視するのも違うし、「金銭的にムリ」とか「家事育児なんかムリ」だから「居なくなったら生活できない」というのも違う。
利雄と章江が夫婦を続けているのは、娘という「かすがい」がいるからこそで、それ以外に関しては、ほんと惰性的に一緒にいるような感じがしました。夫婦でいる意味あるのかな、という薄っぺらで機械的な関係に見えるのです。
そんな夫婦の元にやって来るのが、八坂なのです。
最後まで観て思うのは、「八坂という人間は存在しなくても物語が成り立つ」ということです。夫婦間で全てを打ち明け共有しなくてもいいけれど、相手を裏切ってしまうような秘密は抱えるべきではないんだな。人道に反することはもってのほかだし、うしろめたいと感じることはしちゃいけない。
章江がプロテスタントであることと、象徴的な八坂のシャツの色に絡めて言えば、悪魔は天使のふりしてやってくる。それとも、天使と悪魔は表裏一体なのかな。
そして淵に立った時、悪魔が微笑んだらジ・エンドなのです。クワバラ、クワバラ…。
浅野忠信がほんこわ!