ビールとポップコーン

ネタバレ書かずに、観た映画(ときどき読んだ本など)を雑文多めに記録しています。

こんな映画を観ました(まとめて)

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うなぎ(1997)★★

映画の肩書きはさておき、私にはよくわかりませんでした。ただなんだかすごくスケベな感じがしたのと、作ったお弁当を受け取ってもらえないというのがいちばん切なかったです(わたしの中では最上級の拒否)。

 

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スリー・ビルボード(2017)★★★★★

すごくよかった!わたしはこういう映画を観たくて映画を観るんだ、とおもいました。…って「うなぎ」と比較してカンヌよりハリウッド向きな人間みたいなだけれど(フランシス・マクドーマンドの受賞スピーチかっこよかった〜)。どうして「スリー」なのかと色々考えたけれど答えは出ずじまいです。たぶんキリスト教と関係があるのだとおもう(冒頭の三段オチだけじゃない気がする)。

 

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ゲット・アウト(2017)★★

妹からすすめられて観たけれど「うーん」でした。イマの時代っぽいホラー映画だとおもうけれど。

 

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さよなら渓谷(2013)★★★

嘘でしょ、ってくらい衝撃的な内容でした。小説が原作と知ってググってみたら、吉田修一さんという作家の映画化作品(「悪人」「怒り」「横道世之介」)はどれもおもしろいので原作も読んでみようとおもいました。一見ふつうの夫婦に見えても、どんな悲しみや苦しみや恨みを抱えているかわからないし、そんな男女の間にも不思議な穏やかさやごく当然のように肉体関係があったりして、すごく不思議な気持ちになる映画でした。真木よう子の細さ!

 

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愛の渦(2014)★

松壮亮くん見たさに観たけれど、本編全編ほぼ濡れ場でした。濡れ場の中に色々なシークエンスがあるのだけれどよく覚えていません。ラストは意外とよかったです。

 

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東京難民(2014)★★★

ごく普通の大学生があれよという間にホームレスになっていく映画です。短期間で見事な転落っぷりなのだけれど、無きにしもあらずでこわい。どれも東洋経済オンラインとかで読んだことがあるようなエピソードなんだもの。主役の男性どこかでみたことあるなーとおもったら「無痛くん」でした。髪の毛と眉毛があるから調べるまで気づかなかった。

 

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監督失格(2011)★★★★★ <ネタバレあります>

2018年に観た中でいちばん衝撃的だった映画。ひとりの夜に映画でも観ようとおもってNetflixの「お気に入り」の中から「なんでこの映画お気に入りに入れたんだっけ?」とおもいながら観始め、観終わったあとはあまりのショックにしばらくぼーっとしてしまいました。

AV監督(このドキュメンタリー映画の監督でもある平野勝之さん)とAV女優(林由美香さん)の不倫自転車旅の再編集版、くらいにおもっていて、映画の中盤過ぎくらいまで「よくやるなー」とか「そこまで見せちゃうのかよ」という感じにダラダラ観ていたのですが、不倫関係が解消した終盤になって、突如不穏な雰囲気になるんです。約束をしたはずの由美香さんと連絡が取れなくなり、自宅を訪ねても応答がない。翌日も同じ状況で、異変を感じた平野監督が由美香さんのお母さんに連絡を取って自宅の鍵を開けてもらうと、由美香さんはひとりで亡くなっていました。その一連の様子が、ビデオに映っているのです。平野監督とお母さんが雑談を交わしながらエレベーターに乗る様子、平野監督が玄関ドアの郵便受けから覗くと犬の鳴き声がして「なんか臭い」と言っている様子、由美香さんの自宅のドアを開けると飼い犬が飛び出してくる様子、「怖くて」奥の部屋に入れないでいるお母さんの様子、確認しに行った平野監督が「だめだ、警察」と言っている様子、泣き叫んで膝から崩れ落ちるお母さんの様子、すべてが脳裏に焼き付いて離れず、いつまでも息苦しい。このシーンは、平野監督の創作が入っていないというか、すごくリアルでした。

いろいろな意味で、ショックで、忘れられない映画です。観終わってすぐもう一度観たいシーンを観ようとおもったら日付をまたいでNetflixで「公開終了」になってしまったらしく、検索しても出てきませんでした(こんなことってあるんですね)。それから、由美香さんの自宅マンションは、わたしが今年の2月まで住んでいたマンションの徒歩圏内で、よく歩いていたところでした。なにこの偶然、観るべくして観たのか、誰かの思し召し?とおもいました。

 

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ブリジット・ジョーンズの日記(2001)★★★★

バカにしてたけど意外とよかったです。この頃のぽちゃっとしてるレニー・ゼルウィガーかわいい!奇妙な年の取り方していて残念…。

 

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八日目の蝉(2011)★★★★★

移動中の新幹線で観たのですが、隣のサラリーマン男性の視線もはばからず号泣しました。永作博美って童顔の女優でしょ?くらいにしかおもっていませんでしたが、すばらしく女優なんですね。すごくよかったです。

「アンソロジー お弁当。」を読みました

アンソロジー お弁当。

アンソロジー お弁当。(2013)

しばらく長編小説を読んでいたので、息抜きに短いエッセイ集を読みました。転職してからここ半年くらい以前に増してお弁当を作らなくなってしまったのだけれど、先日ひさしぶりにお弁当を作ったら「やっぱりお弁当っていいよなぁ」としみじみ思ったので再読です。

 

私が敬愛してやまない向田邦子さんの「お弁当」というエッセイに、以下の一節があります。

小学校の頃、お弁当の時間というのは、嫌でも、自分の家の貧富、家族の愛情というか、かまってもらっているかどうかを考えないわけにはいかない時間であった。豊かなうちの子は、豊かなお弁当を持ってきた。大きい家に住んでいても、母親がかまってくれない子は、子供にもそうと判るおかずを持ってきた。

(中略)

私がもう少し利発な子供だったら、あのお弁当の時間は、何よりも政治、経済、社会について、人間の不平等について学べた時間であった。残念ながら、私に残っているのは思い出と感傷である。

 私にとってのお弁当もまさにそんな感じで、お弁当についてふと考えると胸が詰まることが多いのです。

とくに高校生時代のお弁当のこと。私の母は看護師として昼夜シフトで働きながら、夜勤で朝不在にしているときを除いてほとんど、お弁当を作ってくれました。当時はスマホクックパッドも無かったから、お弁当の本や雑誌を買ったりしながら、いつも可愛らしいお弁当を作ってくれました。3月には「ひな祭り弁当」(今で言うキャラ弁)を作ったり、夏には「冷やし中華」なんてこともありました。仲の良かった友人が私のお弁当を羨ましがって、友人の分まで母に作ってもらったこともありました。

私は自分のお弁当を「恥ずかしい」と思ったことは一度もなく、むしろクラスメイトに見られて「美味しそう」「かわいい」と言われることに誇らしさというか、小さな優越感のようなものを感じていたほどです。母が私の気持ちを見越してお弁当を作っていたとは思えないのですが、とにかく、いつもお弁当箱の蓋を開けるのが楽しみでした。

女子だけのクラスでしたが、3年間、いつも同じお弁当の女の子がいました。大きなプラスチックのお弁当箱にお米を敷き詰めて、その上に出来合いの鶏の照焼を切って並べているお弁当。彼女は地味で、特別親しい友人がいる様子もなく、いつも1人でお弁当を食べていました。そんな彼女に私は、彼女のお弁当にちなんだひどいあだ名をつけて、友人たちと笑っていたのです。つくづく性悪、最低。過去の自分をぶん殴ってやりたい。彼女の家庭事情がどうだったのか、彼女のお弁当を誰が作っていたのか、モーレツな偏食でそのお弁当しか食べたくなかったのか。高校の同窓会には1度も参加していないし繋がりもないので、もうたぶん一生彼女に会うこともないのだろうし、会ったところで「あなたの高校時代のお弁当は、」なんて聞けるはずもないのだけれど。

高校生の頃、母のいない朝はキッチンカウンターに千円札が置いてあって、コンビニで昼食を買っていました。私の記憶では、1度だけ、父がおにぎりを作ってくれたことがあります。いつも母のお弁当が楽しみだったのと同時に、たまに買うコンビニ弁当もまた楽しみだったので「なーんだおにぎり作ってくれたの」と素っ気なく父に言ったような気がします。可愛らしいピンク色の小花柄のハンカチにくるまれたおにぎりを受け取ったとき、やたら重たいな、と思ったのですが、お昼休みにハンカチをほどくと、アルミホイルに包まれたソフトボールくらい大きなまん丸が2つ、入っていました。アルミホイルの中は、海苔で真っ黒い球体のおにぎり。無性に恥ずかしい思いをした記憶があるけれど、今となっては鼻の奥ががツンとするような思い出です。

この他にも、高校生最後のお弁当には母からの手紙が添えられていたこと、反抗期でグレにグレた妹が母のお弁当をほとんど食べずに自宅のゴミ箱に捨てていたこと、それを見つけた私は捨てられたお弁当が見えないように隠して妹にブチ切れたこと、どれも感傷的な思い出ばかりです。

大人になって初めて自分以外の人のためにお弁当を作ったとき、私のためにお弁当を作っていた母の気持ちがわかりました。誰かに見られることを想定して(優越感を感じてほしくて)作ってなんかいなかった、食べる人のことしか考えていなかった、ただただ喜んで食べてほしいという気持ちだけで、無理してでも作っていたのだと思う。

 

たぶん、彩り美しい弁当は山とあったろう。しかし記憶に残るのは、その家のにおいがにじみ出たような弁当ばかりだ。家庭にはそれぞれ、流儀や価値観、習慣がある。人の数だけ暮らし方はあって、その内実は経済状態や住環境、家族構成といった表面的なことのみで計れるものではないのだろう。なにせ暮らしというのは、誰もが営んでいる身近なものであるにもかかわらず、これぞ正解という形がなく、プロもいない。そもそも甲乙をつけられるものですらないのだ。どの家庭にも必ず華があり、よろこび苦しみがあり、問題があり、喪失がある。だから、体裁を飾ることや、よそと比べてどっちがどうだということはあまり意味がない。家庭は本来、自分たちなりの形をゼロから紡げる、これ以上ない創造的現場なのだと思う。

理想の家庭、なんて幻想である。人も暮らしもいろいろあるから面白く、また愛おしいのだ。

(弁当三十六景/木内昇

 インスタグラムのハッシュタグ「#お弁当」なんかで見る違和感の正体はこれだったんだ。高校生の頃から20年近く経ったいま、私は生活感のある地味弁が大好きです。

「宿屋めぐり」を読みました

宿屋めぐり (講談社文庫)

宿屋めぐり町田康(2008)

「好きな作家は?」「町田康」と即答するほど町田康が好きで、きっかけはちょっと心が弱っていた二十歳そこそこの頃に地元の本屋でたまたま見つけた「パンク侍、斬られて候」を読んで衝撃を受けてから(表紙もかっこよくて一目惚れに近かった)。その後、長編の「告白」を読んで、それが私の人生におけるそれまでもこれからも絶対的な傑作になった。「宿屋めぐり」は「告白」の後に発行された単行本で、4.5センチ厚、600ページの長編小説なのだけれど、もちろん初版を買って、でも今まで読まずじまいでした。なぜなら、長編小説が読みたくなったら「告白」を再読していたし、好きな作家の作品をすべて読みたいファンもいれば、猛烈に好きな1冊があるというのもまた立派なファンだと思っているので。

(ちなみに、東日本大震災のあったその日の夜、浜松町の貿易センタービルで町田康の「スピンク日記」刊行サイン会があった。当時浅草の会社で働いていた私は、大きな地震でてんやわんやになっているにもかかわらず「サイン会に行きます」と言って16時過ぎに会社を出て、映画のシーンのように普通じゃなくなっている街を3時間くらいかけて、歩いて浜松町に行ったのでした。当然サイン会は無く、整理券を受け取って町田康さんにメッセージを書きました。今でも鮮明に覚えているこの日のことは書くと長くなるので、また別の機会に)

ここ半年〜1年くらい読書熱が盛り上がってきて「告白」を何度めかの再読をしてようやく「あれもこれも読みたい」という気持ちになりました。でやっと「宿屋めぐり」を読んだのです。そしたらこの小説もまた傑作でした。手元で10年温めてようやく気づいた、どうしてもっと早く読まなかったのだろう。

雇い主から大権現様に大刀を奉納するように命じられた主人公が「白いくにゅくにゅ」したものに飲み込まれ別世界に行ってしまう話。別世界といってもこちらの世界とほとんど変わりはなくて、でも人も景色も妙に嘘くさい世界。「正義とはこういうことだ」と主に常々示されていた主人公は、そんな世界にばまりこんでしまったことは「主からの試練」と理解し、宿屋を渡り歩き大権現様を目指します。

(名前も含めて)奇妙な登場人物、不確かな時代設定、何もかもが不思議でおかしくて、正に町田康にしか書けない小説だと思います。バカバカしい挿話や屁理屈も最高。でも読み進めていくうちにどんどん残酷になって、宗教的になって、小説の芯の部分が見えてくる。それは「(自分にとっての)真実と嘘」や「何かを信じる(信仰する)こと」から生じる過信や盲信、人生観、欺瞞と忠実、罪と罰、輪廻転生…など。信じる者は本当に救われるのだろうか?人間の意識や魂ってなんなのだろう?ということを、こんなふうに小説として表現できるってすごいなー。

読み終わった勢いで感想を書きました。(これが正しい)

魂と意識というものは別のもので、でも魂なしに意識は存在し得ないとすれば、魂を言語化したものが意識ということか。いや、そうではなく意識とは魂の屁のようなものなのだろう。